Interview 038
Kasamori
数多の有名ブランドを縁の下で支える、
老舗の刺しゅう工場。
September 20, 2022
繊維の町として名高い群馬県桐生市の中でも、ひときわ長い歴史を持つ刺しゅう工場・笠盛。織物から始まった一企業が、世界で活躍するようになるまでどのような道のりを歩んできたのか、四代目会長の笠原康利さんにお話を伺いました。
ーー笠盛の成り立ちについて教えてください。
和装の帯の機屋(はたや)として、曽祖父の笠原嘉吉が1877年(明治10年)に創業し今年で145年になります。当時は嘉吉の名前から一文字とり、「笠嘉織物」という会社名でやっていました。私が会長になるときに会社のマークを創業当初のものに戻そうということになり、“𠆢(ひとやね)”にカタカナの“カ”を組み合わせたロゴを今でも使っています。
ーー織物から刺しゅう業に転向したきっかけは何だったのでしょうか。
1950年頃はガチャマン景気で、「織物をガチャンと織れば万の金が儲かる」と言われるぐらい、繊維や紡績などの業種は好景気でした。ところが、1957年からなべ底景気という不況状態が続き、三代目である父親が他の事業もやってみようと、鉄鋼や横編みなど色々なことに挑戦していたんです。そんな中で残ったのが刺しゅうでした。元々帯に刺しゅうをつけたりはしていたので、ノウハウがあったのも大きいと思います。世の中の流れに乗っていかないと商売として成り立ちませんし、父がよく口にしていた「同じ商売が続くと思うな」という言葉は、いくつかある家訓のひとつでもあります。
ーー笠原会長は、いつ頃から笠盛で働いているのでしょうか。
最初は、叔父の紹介で日立の子会社でエンジニアとして働いており、織物や刺しゅうとはまったく関係ない世界にいました。父親から「いい加減帰ってこい」と言われ、戻ってきてからは営業として働き始めました。何も知識がない状態から勉強し直したものの、聞かれても答えられないことが多かったのですが、一生懸命にお客様の要望に応えようとしていると、色々と教えてくれます。それから段々と輪が広がっていきましたね。
ーー刺しゅう業に焦点を絞ってからは、海外にも積極的に目を向けているんですね。
1990年代から生産拠点を海外に置く企業も増えてきて、笠盛もインドネシアに行ってジョイントベンチャーの中で刺しゅうをやっていました。5年経ったらそこから独立しようと考えており、2001年には100%子会社のPT.KASAMORIを設立しました。しかし、中国の勢いに勝つことができず2005年に撤退し、以降は海外で活動するというよりも、日本から海外へ広めていこうということで展示会に力を入れ、2007年からコロナ前の2019年までパリ、ニューヨーク、フランクフルトと毎年出展していました。
パリで開催される世界最高棒の服地見本市であるプルミエール・ヴィジョンに2007年に出たときは、飛行機に乗る前日の夜までサンプルを作っていました。一番得意なのが加工なので、その技術を見せられるものということで作ったのが、こちらのボレロです(写真上から3枚目)。展示会初日の午前中に100万円ぐらいで売れて、「これはいけるな」と思ったら、結局売れたのはこの一件だけでした(笑)。「毎年見ていて、ずっと出展しているから安心だと思って来た」と言われるぐらい、海外の方は意外と保守的な方が多い印象ですね。何年か続けているうちに念願が叶い、2014年には販売していた製品が某有名コレクションブランドで使われました。
ーーそれはどのようなアイテムだったのでしょうか。
カサモリレースという独自の刺しゅう技術で作ったモチーフになります。普通のレース機だと一色しかできないのですが、刺しゅう機だったら何色も使えるという利点を活かして開発しました。こちら(写真上から4枚目)もカサモリレースをもとに作ったサンプルなのですが、かぎ針で生地自体を縫いあげて、編み物のように仕上げています。刺しゅうは付けるものによってもまったく違うものになるので、アイディア次第で面白い提案ができるのも醍醐味だと思います。そのブランドではバッグにこのカサモリレースが用いられていて、阪急うめだに一点だけ入荷すると聞いて記念に買おうと思ったのですが、値段が250~300万円とのことで泣く泣く諦めました(笑)。
ーーカサモリレースを契機に、笠盛の名前が世界中に広がっていったんですね。その他に、思い入れの強いアイテムはありますか。
今季作った最新のシリーズで、桐生の機屋さんに織ってもらった生地に刺しゅうをしたものです(写真上から5枚目)。桐生は元々着物で栄えた町なのですべて分業制で成り立っていて、どこかひとつでも欠けると二度と作れない製品があったり、技術が途絶えてしまう恐れがあるんです。この土地らしいものづくりを意識したときに、業界全体もちゃんと守っていかなければと改めて思いました。自社ブランド・000(トリプル・オゥ)をやっていく中でも、今までは繋がりのなかった職人さんと協力することで新たなプロダクトが誕生したりして、そういう可能性もまだまだこの町には残っていると感じています。
ーーまさに地域の特性を活かしたものづくりですね。工場の外観も特徴的ですが、これは桐生ならではのものなのでしょうか。
これは織物工場などによく使われているノコギリ屋根というもので、産業遺産として桐生市内にも数多く残っています(写真上から6枚目)。採光のため屋根の向きが北側になっており、直射日光はあたらないのですが明かりが1日中安定して入ってくるので、工場内で作業するのに適しているんです。今は直したのですが、谷間のところが雨漏りしやすいので、昔は屋根裏にバケツを置いたりしていました(笑)。刺しゅうの生産を安定させるためには温度や湿度をコントロールしないといけないので、その日の天気などにあわせエアコンで細かく設定するのも大事ですね。
ーー工場内にはどのようなミシンがあるのでしょうか。
笠盛で使っているミシンは大きく分けると、平縫い、チェーンステッチ、コード刺しゅうの3つになります。この他に、縫う作業と切る作業を並行して行なえるレーザーカット刺しゅう機や、連なったスパンコールをカットしながら縫い付ける刺しゅう機など(写真上から7枚目)、特殊なミシンもいくつかあります。現在、社員はパートさんも入れると32名いるのですが、そのうちミシンを動かせるのは20名程度で、データは2人で分担して作っています。精密さという部分では機械には適わないのですが、糸のテンションなどは人の感覚で調整しないと上手く縫えないですし、縫いあがったものを仕上げるのも人の手でないとできません。機械と人、それぞれの長所を活かした共同作業は、この先テクノロジーがさらに発展しても必要になってくるので、両方の良さを取り入れながらこれからもものづくりを続けていければと思います(写真上から8枚目)。
text:藤枝梢 photo:中矢昌行
取材後記
以前、アパレルブランドさんとコラボさせていただいた際に、笠盛さんに刺しゅうをお願いしました。そのときも、とっても丁寧に、できるだけわたしの手刺しゅうの雰囲気を残すようにと調整してくださいました。その後、雑誌などでお見かけしたりと、常に日本の機械刺しゅうの最先端を走っている笠盛さんにいつかお話をうかがいたいと、ずっと思っていた念願が叶いました。
歴史ある会社ならではのご苦労や絶え間ない努力、挑戦は本当に頭が下がります。誰でも知っているような海外の有名ブランドに高い技術が評価されたことは、なにも関係ないわたしも『日本には、こんなに素晴らしい技術や職人さんがいるんだよ!』っと、誇らしい気持ちになりました。そして、この技術は絶対になくなってはいけない大切なものだなぁっと感じました。会長が、わたしのような若輩者にも、とっても優しく丁寧にそして、ユーモアも忘れずにお話してくださったのもとっても嬉しかったです。
デザイナーの『こうしたい!』を忠実に叶えるだけでなく、要望のひとつ上を提案するような姿勢はどんな立場でも、あらゆる職業に通じる姿勢だと思います。そうした姿勢で信頼関係を築き、一緒によりよいものづくりをできるというのは、ものをつくる全ての人の理想のかたちだと思います。
atsumi
Information
笠盛
群馬県桐生市三吉町1-3-3
刺しゅうを知る、楽しむ、新しいきっかけを
刺しゅうはきっと、普段の生活に関わるもののなかにひとつはあって、一度は触れたことがある、とてもありふれたもの。しかし、時に記憶の奥深くに残ったり、ものに対する想い入れを強くしたりもする、ちょっと特別なものでもあります。
どうして刺しゅうに惹かれたの?
SeeSew projectは、刺しゅうの作品をつくったり、ライフスタイルに取り入れたりしているクリエイターの方々にそんなことを聞き、改めて刺しゅうがもつ魅力を探るために立ち上げたプロジェクトです。幼い頃にお母さんからもらったもの、お子さんに施してあげたもの、親しい人からプレゼントされたもの。あなたの身近にありませんか?SeeSew projectで話をうかがった方々は意外と、何気ないことを機に刺しゅうに魅了されているようです。